2017/10/14(土)雨ときどき曇

 

こんにちは。

土曜日は寝て起きてアニメを見ると終了します。つらいですね。休日を楽しみたい気持ちは強いのですが、如何せん体力が底なので寝る他ない。週5勤務でこうなってしまうので労働に向いていないことがわかります。将来は…一体…。

はい。今日見たアニメとしては『キルミーベイベー』『劇場版 けいおん!』『あの夏で待ってる』です。割と観ました。キルミーが今でも観られるというのは素晴らしいことです。皆さんも観ましょう。『シャブミーベイベー』の制作、期待してます。

 

 

さて本題です。いい加減、本題とは何かわかりましたか?ぼくにはまだわかりません。世の中わからないことだらけです。まぁそんなことはどうでもよく、どうしても書かなくてはいけない気分になったので書いています。睡魔は未だ来ず。そういうわけで寝る前の話です。

 

ぼくは音楽を流して床に就くことが多く、基本的にはボーカロイドのメドレーやアニメソング・BGMのメドレーを聞くのですが、最近はそれらをピアノアレンジしたものをよく聞いています。そうして歌詞を失ってみて改めて気付くのは、感情は言葉に先立つものなのだなということです。

ぼくたちが言葉を紡ぐ時にはすでに感情は終わってしまっていて、残された微かなものとその記憶を頼りにして紡いでいくしかないのではないかと思います。あるいは感情が最も高まるのは言葉にしてしまう前の段階で、一度言葉にしてしまえばあとはしぼんでいくだけのような、そういう感覚があります。言葉によって共有できるのはそこにあったはずの感情で、そうであるからこそ生まれる儚さのようなものもあって、それはそれとして当然価値があるものなのですが、そこにはある種の距離感が必然的に生まれてしまう。

そして、その距離が限りなくゼロであるから非言語的な表現は心震わせるのかなと思います。それは楽器に限ったことではなくて、例えば人の慟哭が胸を打つのはそこには感情が今まさにそこにあることがわかるから、というような気がしています。それを言葉にして共有しようとすれば、終わってしまったものを、過ぎ去ってしまったものを互いに見つめ合うことしかできないけれど、言語を介さないことで現にそこにある感情に気づくことができるのでしょう。

だから多分、言葉を介するか否かでそこに生じる共感は変わってきてしまう。言葉にはそれが指し示す範囲があって、言葉に対して共感するのはその範囲のぶんだけズレが出てくるのではないかなという気がします。それが悪いことであるというつもりは全くないです。しかしそれはやはり儚さや寂しさを伴うのかなと思います。これもまた語に縛られてしまっているのかもしれませんが。

他人の感情は自身の感情と呼応するものだけれど、その間に言葉が挟まると冷めてしまうんでしょうね。そこにある感情の熱量を全て伝えるためには言葉は枷になってしまう。感情はひどく脆く、次の瞬間にはわからなくなってしまうようなそういう刹那的なものだからこそ、その残滓を繋ぎ止めるのもまた言葉の役割なんでしょう。言葉は枷であり入れ物であるからこそ感情の瞬間性を克服し、永遠へと向かっていくものになるということです。そして、そうであるからこそぼくらは延々と詩を書き続けるわけです。その思いを記すために。

わかったか?わかったら人のポエムを笑うな。いいな。絶対だぞ。

 

 

どうしても寝る前に書きたくなったので書きました。朝起きるとどうせ忘れているので。ぼくは基本的に鳥頭です。

書き足し書き足しでやっているので文章がかなり支離滅裂かもしれませんが、要するにピアノアレンジはいいなぁエモいなぁと言っているだけです。

 

おわり。